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我が愛しのプロレスラー Part Ⅱ ~長州力編~
2020-06-08スタッフブログ
工藤 KUDOU
第2弾は 長州力さんです。言わずと知れた革命戦士。長髪をなびかせ、入場テーマ「パワーホール」の中、威風堂々リングイン。藤波辰爾さんの回でふれましたが、プロレスを見始めた頃のTOMO少年は、長州選手があまり好きではなく、完全にヒールでした。そんな長州さんのことを今回は紹介します。
長州さんは山口県出身で高校時代にレスリングを始めます。成績優秀で専修大学に進みます。大学2年の1971年、全日本学生選手権のグレコローマン90kg級優勝。大学3年の1972年、当時韓国籍だったためオリンピックに出場できない。関係者の助けにより韓国レスリング代表としてミュンヘンオリンピックに参加することができた。そんな「アマレスエリート」の肩書をひっさげて、1974年にアントニオ猪木氏が設立した新日本プロレスリングに入団しました。入団してからしばらくは人気が上がらず、雌伏のときを過ごします。そして、いよいよ1982年、藤波選手との「名勝負数え唄」を繰り広げます。世にいう「かませ犬」発言により、「革命戦士」という異名を頂戴し、トップスターへと駆け上がります。そして長州選手の1番のトピックスと言えば、1984年に新日を退団し、自ら「ジャパンプロレス」を旗揚げします。あろうことか、ジャイアント馬場が設立した全日本プロレスリングへ参戦したのです。当時、猪木vs馬場。新日vs全日の関係を考えればあり得ない事でした。
地味な印象だった全日が、長州選手の参戦により、活気づき、試合はゴールデンタイムでの放送となりました。それまででは考えられない、長州vsジャンボ鶴田、長州vs天龍源一郎といった、ファンにとって夢のようなカードを実現させたのです。天龍選手とはその後もライバル、盟友となります。この時期が長州選手にとって最も目映い光を放っていたと、私は思っています。プロレス業界の旧態依然とした体質やしがらみに対して、真っ向からぶちあたり、「すべてを壊してしまえ」というマグマを感じました。ですが、わずか2年程で「古巣」である新日に電撃復帰。「世代闘争」「イデオロギー闘争」を繰り広げ、常にプロレスの中心であり続けました。
幼きKUDO少年は、ヒールの長州選手が好きではありませんでした。ですが、彼のあまりの感情の起伏とブレーキなんて端から存在しないような、アクセル全開の行動力を見続けるうちに、大好きなプロレスラーになっていました。お決まりのパワーホールが会場に鳴り響き、多くの技は使わず、生涯通して愛用した「リキラリアット」「スコーピオン・デスロック」。無骨な彼には本当によく似合う。だからこそ、観客は、その瞬間を待ちわびて、歓喜する。彼の作り出す空間は、観客と共犯関係で織り成す極上のマンネリズムと昇華します。それはまるで、ドリフターズであり、志村けんのように。合掌。
選手として晩年の彼の言葉です。
「オレは、プロレスのど真ん中にいるぞ」。
私から長州さんに贈る言葉。
「私が見てきたプロレスには、いつもあなたがど真ん中にいました」
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