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我が愛しのプロレスラー ~ドラゴン 藤波辰爾編~
2020-04-02スタッフブログ
工藤 KUDOU
私とプロレスの出会いは、1980年代、昭和55年あたりからだと思います。物心ついたころから、何故だか好きでテレビにかじりついていました。
新日本プロレスリング(New Japan Prowretling) 通称「新日」と 全日本プロレスリング(All Japan Prowretling) 通称「全日」という2つの主要団体がありました。
私は、アントニオ猪木氏が設立した「新日」の大ファンでした。
今回紹介したいのは、「ドラゴン」こと「藤波辰爾」選手です。1987年1月23日、ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンにてカルロス・ホセ・エストラーダを、藤波選手のフェーバリット・フィニッシュ・ホールドであるドラゴン・スープレックスで破り、WWWFジュニアヘビー級王座を獲得し、凱旋帰国しました。
当時、日本ではヘビー級のレスラーばかりが活躍していましたが、ドラゴン藤波の出現により、「ジュニアヘビー級」というジャンルが定着しました。均整のとれた身体と甘いマスクで一気にスター選手になりました。
1981年にヘビー級転向のためにジュニアヘビー級王座を返上。翌1982年にジノ・ブリットを破りWWFインターナショナル・ヘビー級王座を獲得。そしてこの年の10月、「長州力」との抗争が始まります。ご存知「名勝負数え唄」ですよね。。藤波vs長州のシングルマッチは熱狂の渦を巻き起こしました。
当時の長州選手は藤波選手より格下あつかいをされていました。その現状を打破すべく反旗を翻します。3対3のタッグマッチの際中に、味方であった藤波選手に、あろうことか平手打ちし、世にいう「かませ犬」発言をしました。
当時ドラゴンファンだったため、格下で長髪の長州選手に腹が立ち、嫌いでしたねー。日本全国が藤波派と長州派に二分されました。この時の2人は、まだ若くギラギラしており、感情むき出しの試合をしていたので、見るものの胸を熱くさせました。私も当時6,7歳くらいでしたが、毎週テレビ放送が楽しみでした。
その後、新日では選手の大量離脱、長州率いる「維新軍団」が禁断の全日に移籍する等、新日存亡の危機に陥りますが、ドラゴンはエースとして屋台骨を支え続けます。数々のタイトルを獲得をして、押しも押されぬプロレス界のスーパースターとなります。ですが、ドラゴンのピークは、やはり長州との「名勝負数え唄」の頃だと断言できます。
そして藤波選手のすごい所は、自分の名前を冠した技が沢山ある(おそらく世界一)ことです。
「ドラゴン・スープレックス」「ドラゴン・ロケット」「ドラゴン・スクリュー」「ドラゴン・スリーパー」「ドラゴン・バックブリーカー」「ドラゴン・リングイン」「ドラゴン・フェイント」etc....まだまだあります。
何故こんなに藤波選手だけ自身の名前を冠した技が多いのか?
それはドラゴンが使えば「ドラゴン・ラリアット」だし、「ドラゴン・ドロップキック」になるからです。そんな選手は他にいません。それがドラゴン藤波のすごさを物語っています。
まだまだ語り足りませんが今回はここまで。
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